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映画はこの上の写真のシーンから始まります。ユハとその女房マリアが畑でとれたキャベツをオートバイに乗せて売りに行くところです。マーケットでのキャベツの売れ行きは上々。古びた缶には小銭がいっぱい貯まりました。手をとりあって喜ぶ無邪気な夫婦。
二人は子供のように幸せだった
こんなふうに畑でできた作物を売ってつつましく、でも満足して暮らしているユハとマリアでした。
ある日ユハがいつものように畑で作業していると、車が故障して難儀している男に声をかけられます。ああ、いいとも、直してあげよう。気のいいユハは自動車とこの男を家に招き入れます。幸福な二人の生活に突然あらわれたこの男。それが後の悲劇の根源となる誘惑者です。
「すごい車だ」 ユハはさっそく修理にとりかかります。その間、男はマリアに紹介され、ぶらぶらとあたりを歩き始めます。女と二人きりになったとき、男は外で働いているユハのほうをあごでしゃくって問いかけます。
あの男は君のお父さんかい?
いいえ、違いますよ。夫ですよ
女は笑います。
君はそんなに若くてきれいのに、
どうしてまたあんな年寄りで、
しかも足の悪い男なんかと一緒にいるんだ
あら、ユハはいい人よ
女はちょっと気を悪くして答えます。しかし、誘惑者というのは一瞬たりとも時間を無駄にしません。
君のような可愛い娘がこんなところにいるなんて
どうだい、僕と一緒に町に行かないか
そこなら君はきれいな服を着て楽しく暮らせるぜ
なんせ言われたことのないセリフを聞いたもんだから女の頭はたちまちふっとんだ。コーヒーを入れようと、やかんの中にスプーン一杯、二杯、三杯、四杯、五杯、六杯、、、、やかんにはこぼれんばかりにコーヒー豆が、、、
その様子を横目で眺めつつ
「獲物はかかった」
誘惑者はほくそ笑みます。
(ちなみにフィンランドでは昔はコーヒーはドリップ式ではなくやかんで煮出すほうが主流だったようです。いまもその方式にこだわる人は多く、私は一度スーパーで間違って買ってしまったことがありました − どうでもいいことですが)
さて、車は直ったが、もう遅いことだし、今夜は泊っていけばいい、とユハがとっておきのお酒を出して客人をもてなします。いい気分で酔っぱらったところで、男はユハに言います。
いや、あんたは幸せものだな。
あんなに若くてきれいな奥さんをもらって
あ、あれはね。孤児だったんですよ。
私が育ててね。結婚してやったんです
ぐでんぐでんに酔っぱらったユハはぽろりとそんなことを口にしてしまいます。それを聞いたマリアは面白くありません。一緒に寝るのも腹が立つ。ぷーっとふくれて、ひとり毛布にくるまって床に寝ころびます。ユハはもうすっかりできあがって大いびきをかいて寝てしまいます。
翌朝、男は立ち去ります。機嫌よく見送るユハ。人助けはいつだって気持のよいものです。
けれど、男が立ち去った日以来、マリアは変わっていきます。毎日ファッション雑誌をながめては、ああでもない、こうでもない、とお化粧に余念がありません。でも、化粧なんてしたことがないもんだから、はは、なんかまるでタヌキみたいな顔になっちゃって。でも本人はけっこういけている気分なのでしょう。それと同時にユハの世話もどんどんおざなりになっていきます。
かつてはちゃんと料理をつくってテーブルでよそっていたのです。いまはレンジでチンをして(電子レンジがあるわけ?)、ふたを切ってそのままぽいとユハに渡すだけ。ユハはいまやレンジの前でごはんを食べるようになりました。
それでもユハは文句など言いません。そもそも、ここまできてもユハの口から
「おまえ、ねえ、このごろ、ちょっとおかしいんじゃないか」
てな言葉自体がぜーったい出てくることはないのです。
ああ、これが
− これが男と女の深い溝といえましょうか。
しかしまあ、せっせとお化粧をしたところで見てくれるのはキャベツだけ。畑の中でキャベツを取り上げ、マリアはまたぷーっと口をとがらせます。
それでも相変わらずお化粧をして、今度はタバコにまで手を出そうとします。
都会の女ならタバコぐらい吸っているはずよ。あたしだって。
しかし、このときはじめて、ユハはマリアを制してタバコを取り上げます。
これがユハの愛の表れなのです。甘い言葉をささやくことはできないけれど、タバコがマリアの身体に悪いことがわかっていればためらうことなく取り上げることができるのです。それがユハなのです。マリアだってユハのよさがわかっていないはずはありません。だって今まであんなに幸せに暮らしていたのですから。
そのままいけばマリアの都会へのあこがれも束の間の熱ですんでいたことでしょう。
ところが、
なんと、あの誘惑者がまた現れるのです!
大喜びで迎えるユハ。誘惑者はお土産としてマリアには洒落たスカーフ、ユハには酒を渡します。じつにわかりやすい。当然のごとく三人は酒場に繰り出し、酒とダンスの夜を過ごします。
朝になりました。
酔いつぶれたユハを残してマリアと誘惑者は立ち去っていきます。
そして悲劇が始まるのです。
この映画はユハニ・アホの小説を土台にしたもので、過去にも何度か映画化されたことがあるそうですが、アキ・カウリスマキはこれを斬新な手法を使って描きました。セリフをすべて無声映画のようにテキストにしてしまったのです。
誘惑者が男であれ女であれストーリー自体は古典的なテーマといってもよいでしょう。この古典的なテーマはまた永遠のテーマでもあるといえます。過去かぎりなく取り上げられてきたこのテーマ、その陳腐なテーマを逆手にとった手法ですね。
ユハを演じたサカリ・クオスマネンはまさにはまり役。監督はひょっとしたらこの人がいたからこの映画をつくったのではないかと想像してしまうほどです。つい最近見た「浮雲」ではレストランのガードマン役を演じていましたが、それもぴったり板についておりました。(この映画ではキッチンで酔っぱらっているコックを扱うのもガードマンの重要な日課となっております)
マリアを演じたカティ・オーティネンはいつも変らぬ芸達者ぶりです。役者がみなどこかコミカルな面を見せるのがアキ・カウリスマキの映画の特徴ですが、ごく最近の作品「街の灯り」ではこの大女優がスーパーのレジ係でちらっと出てくるのに驚かされました。ぼそっと金額を告げるだけの出番。これも監督のジョークか、あるいは彼女自身のジョークか。
またこの人はこういった役割がじつによく似合う!
マッチ工場の女工に扮した映画でもそうでした。いつも壁の花で終わる救いのない女、その女が男に捨てられて突然思い切ったことをする。こうなったらもう、あれもやっちゃえ、これもやっちゃえと、ついでに声をかけてきた男の酒にもちょろっと毒を入れたりして、「そりゃ、いかんでしょう」と思いながらもこのシーンではつい笑ってしまいました。
それはそうと映画「ユハ」の中で誘惑者がマリアとの逃避行の途中、車を止めて一休みするシーンがあります。男が眠っている間、マリアは森で見つけたベリーの実を一粒ずつ枝にさしていき、その美しく飾った枝を目覚めた男に手渡します。けげんな顔をしながらも、もらった男はその枝を歯でクィーッとしごいたかと思うとあっという間に食べ終えてしまいました。「はい、どうも」 見守っていた女に男はあっさりそう言うだけ。
ま、いっか。
枝にベリーを一粒ずつ刺していくにはどれほどの時間がかかったことか。しかし、舞い上がっているマリアはなおも笑みを浮かべて男を見守ります。
じつは男はその前に足もとに触れたチョウを靴で踏みにじっています。それも男の残酷さのひとつのあらわれなのでしょう。
しかし、とここで私はふと思いました。チョウはともかく、このベリーの枝に関してはきっとユハでも同じことをするのではないかと。いいえ、多くの男が同じようなことをするのではないですか。たとえ女を愛していても、こういう場合どうリアクトしていいかわからない不器用な男はたくさんいますからね。
いや、それとも監督はひょっとして誘惑者の誘惑者としての役割はすでに終わったことを示すためにこんなことをさせたのかもしれません。考えてみれば誘惑者の役割であればこういう場合もっとスウィートな展開になるはずです。
いずれにせよマリアがユハにしたことは許されるものではありません。いくらユハにデリカシーがないとはいえ、そんなことは彼を裏切る理由にはなりません。けれど、生きているうちには魔がさす瞬間というものもあります。誘惑にあらがうことの難しさ。それがまた人間の愚かさであるともいえましょう。しかし、マリアにとってその愚かさの代償は取り返しのつかないほど高価なものにつきました。
憎しみを含め情というのはなかなか頭で理解できるものではありません。だからこそまた映画や小説が面白くなるわけですが。
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